エネルギーワークをはじめて10年目。
この数ヶ月、仕事やボランティアで移民や難民の人と関わる機会が多く、自分が新たな世界に飛びだして喜び駆けまわっているような感覚がある。すでに結構な大人なのにこういうことを言うのは社会に失礼かもしれないが、社会見学ではしゃぐ小学生のような気分。
なんとなく、ある特定の移民や難民の方々に対して、具体性のない消極的な偏見のようなものが私の中にあったと思う。でもやっぱり実際に接するとわかることがたくさんある。教育を受けたことがない、仕事したこともないという人の中にも一目でわかるほど賢い人やエネルギーのきれいな人がいる。真面目に働いて高い税金を納めて質素に暮らしている人より、ずっと働かず生活保護の人のほうが実質豊かに暮らしている…という話もちらほら聞くけど、そういう損得みたいなものは本当は存在しないんだなと感じる。別の言い方をするなら、損得という概念を持つことで失うものが大きすぎる。
ウクライナから来た難民は優遇されていて中東から来た難民は差別されているという話もあり、そこにはいろんな複雑な事情と背景があるんだろうけど、私の感覚では、中東の人の文化?は(例えば日本人が謙遜したり、悪くないのに謝ったりするのがオランダ人には意味不明なのと同じように)誤解されやすく、ウクライナの人は朗らかで親しまれやすい傾向はあると思う。心の中で「誤解されるよぉ〜!!!」と時々叫んでしまうくらい、一部の人は最初はすごくぶっきらぼう。でもそれは外側のことで、内側には、心がうるうるするような素敵なものを誰もが持っている。
こどものクラスメートが13歳で亡くなった。10月に病気になり、治癒する確率が高いとのことだったけど11月に急逝してしまった。このことを思うと今でもとても悲しく、言葉もない。ただその子とご家族を想うことしかできない。
同じ時期に、私がオランダの社会に出ることを支援してくれた人が急に一般的な生活が送れない状態になってしまった。あれこれと感じることはあるけれど今は彼女の命と魂を信頼したい。
年末から、世界の不安定さを感じる瞬間が多々ある。こういうときこそ「自分の軸を持つ」「本当は思うように生きられる」「直感で感じたことは必ず実現する」ことを多くの人に伝えたい。
最近とくに思うのは「もう自分のことはいいかな」ということ。以前は、自分がいかに快適に過ごすか、ストレスを極力なくしたい、理不尽な思いをしたくないという気持ちが強かった。今は、自分はもう十分幸せなのでそういうことはどうでもいい気持ちと、自分のメリットにこだわるセコい自分でいたくない気持ちが混在している。
私の魂年齢のせいなのか、感情問題か人間性の問題なのか、何かと面倒をみてくれる優しい人が常に身近にいて有り難く心温かくなることばかりだけど、同時に「もしかして自分はいつもしてもらう側なのでは?自分はどれくらい人にしてあげられているんだろう?」という気持ちが強くなる。前は「自分に余裕がないから人にしてあげられない」「こどもが巣立ったら、いつかは」なんて思ってたけど、人にしてあげるってそういうことではないと思う。例えば自分に余裕がないときに、大切な身近な人はもちろん通りすがりの人にどれだけ愛がもてるか。今この瞬間からできるはず。