才能がなくて何が悪いの?自分の才能を知りたがる人の欠如と自己否定

今週は天気がいい日が多い。でも寒い。オランダは今日も平和です。

先日、友達と「最近、才能って言葉が流行ってるよね?」という話になった。

自分の強みや才能に気づくとか、好きなことを仕事にするとか精神論みたいなものとか。私のやっているエネルギーワークも精神論みたいなものかな。

以前、自分には才能があると思っていた。(あ〜恥ずかしい…)

それは親からの貰いもの由来だったけど、あるとき「えっ、そんな特別な才能はないよね?」「才能があると思っているの?」と師匠に指摘されて、「そういえば…ないわ。(盛ってたわ)」と気づいたとき、ものすごく心が楽になった。仮にポジティブな思い込みや勘違いであっても、自分以外のものになろうとしたら、それはもう自己否定なのだ。

子育てや教育で、褒めて伸ばすことが正義みたいに言われているけれど、まず本当にちゃんとその子をみて向き合えているかどうか。的外れな褒め方をしたり「こうなってほしい」という大人の願望を叶えるためにコントロールするようなやり方をしたら、その子の欠如が深まるばかりだ。それは大人の都合の押し付けでしかなく、本来のその子を見ていないということだから。こういう育てられ方をしている人はすごく多い。

親には色々してもらった、お金も出してもらった、感謝しなきゃ、でも何かが満たされない、自分に自信がないという人は、物理的には満たしてもらったかもしれないが親から心をかけてもらえなかった人だ。そしてその親もまた同じような扱いをされてきた人。

今の私が思う才能は、何をどうしたってズバ抜けて目立ってしまう能力。そして本人の自覚はない。ちょっと褒められることが多いとか、他の人より苦労せず楽々できちゃうことは才能ではなく「得意」「向いている」程度でいいんじゃないかなぁと思うのだ。

今流行りの才能という言葉の裏に、そこはかとなく漂う虚無感。欠如、渇望。認められたい思い。自分が特別な存在だと思いたい、せめて存在していていいと思いたい、そういう藁にもすがるようなエネルギーを感じて寒々しい気持ちになってしまう。彷徨っている人ほど何か確かなものが欲しくなり、そのままの現実を見ないので更に迷いが深くなる。

実際は大したことがないのに無理やり何かあると思い込もうとすると、あとの現実はもっと大変になる。それは浮遊だから。ないことを潔く認めた瞬間から本当の自分の人生が始まる。地味に地道に身の丈にあった暮らしを重ねたほうが、ずっと心が満たされる。

なので私は「才能がなくて何が悪いの?」「それが自分なら、それでよくない?」と思っている。才能があって思いっきり輝けるならそれは素晴らしいことだけど、それ以外の人や生き方だって同じくらい尊いもの。世界はいろんな人がいて成り立っているのだから。

地味なら地味で全然いいじゃないか?本人が幸せならいいんじゃないか?幸せって才能どうこうじゃなく、ちゃんと感じて生きているかどうかじゃないかな?と地味な私は思う。

 

追記:エネルギーをみる力、感じる力は才能ではなく努力の継続で習得できるものです。

 


 

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