昨日の記事のつづきです。
レベル1〜7のクラスで学んでいる人も、エネルギー上級者も、「感じているつもりだったのに、いつのまにか思考になっていた…!」ということがよくあります。思考でクリアリングはできないので無駄骨に感じるかもしれませんが、これも必要なプロセスなのかもしれません。深掘りせず、感じずに、思考でどうにか解決しようとする、結論をだして自分を納得させようとする。それでもどうにもならない、やっぱり腹をくくって感じるしかないんだ、と思い知るプロセスがあるからこそ感じるところに行きつけるのかも、と最近よく思います。
思考になるって、例えばこんな感じです。
「両親どちらもわりと苦労して育っていて、愛情ってものを多分あまりわからないまま大人になって結婚して、親になったと思うんです。仕事も大変だったと思うし、父は精神的に弱いところがあって、母はコミニュケーションが苦手で、、、夫婦仲もよくなくて、、、云々、だから、私が寂しかったのは仕方ないことだったのかなと思います。私は我慢するしかなかったんです。親は親なりに頑張ってくれていたのだと思います、、、」
「自分が何を感じたか」「親が何を感じていたか」ではなく、事実をつなぎ合わせて何となく筋が通っているようなかたちににして、理屈で自分を納得させようとするのが思考。一時的には何かがわかったような気持ちになるかもしれません。ですが、理屈は感情には太刀打ちできません。思考と感情は、絵に描いた餅と実際の餅くらい違います。絵に描いた餅では空腹を満たせませんよね?
感じるって、自分の中にある生々しいエネルギーが動きだすような感覚です。奥底に眠っていた感情が覚醒して溢れだすのです。クリアリングで感じた経験が一度でもある人は、感情こそがエネルギーなのだと感覚的にわかると思います。私達の肉体を動かし、日々を生きる原動力になっているのは感情というエネルギーなのです。クリアリングは、何らかの事情によって自分の中にくすぶっている不完全燃焼の感情問題を感じ直す作業です。何十年も感じていない感情を引っ張り出して感じ直すことは、簡単ではありません。何度も何度もトライして、地力をつけて、根気強く取り組むしかありません。
やっかいなのは、思考になっているときに「これは思考だな」と気づけないこと。浮遊と同じです。感じていないのに「自分はすごく感じている」と錯覚してしまうことも多々あります。クリアリングができたら、大きく現実が変わります。なので、自分がちゃんと感じているかどうかを見極めるには現実の動きをみることです。誰がみてもわかるような客観的な変化がないのなら、思考で片付けている可能性があります。
次回は、感情問題の仕組みについて書きます!