愛とは気持ちを一緒に感じること 幸せとは自分の内側にあるもの 

数日前にクリアリングが進んで、改めて思いました。結局はエネルギーなんだなって。

とてもシンプルですが、これがエネルギーワークの基本であり肝でもあると思います。

感情問題が出ているときって頭であれこれ考えています。

例えば、あの人はなんでああいうことを言ったんだろう?傷ついた。こう言ってほしかったのにとか。こどもにはこういう大人になって欲しいから、そのためにはこうしなきゃとか。

頭の中だけで、小手先であれこれ考えて、現実の辻褄合わせに追われるばかりで、いつまでも深いところに到達できないのです。

「こうなったら幸せになれるはず」と思えるものを手に入れても、やっぱり何かが足りない感じがする。もっといい方向にいけるように努力しても、工夫しても、いつも何かが欠けていて、そこがどうしても埋まらない。本当の問題はもっと深いところにあるからです。

若い頃は「いつか完全な幸せが手に入るはず」とまだ信じていました。「他の人は人生がうまくいってるのに」と思ったこともあります。

今思うのは、幸せって外にあるものじゃなく、手に入れるものでもなく、自分の内側にあるものだということ。同じ現実でも、自分の心一つで感じ方は変わります。

幸せを感じるかどうかは物質的な豊かさや状況や生育歴とは実は意外と関係がなく、感情問題の度合いによるところが大きいです。本来の自分のエネルギーに感情問題が覆いかぶさると、本来の感じ方を忘れてしまう。そして人生の方向性がどんどんズレていきます。

結婚したいとか、お金がほしいとか、そういう思考ベースのwantはズレの最たるものです。思考ベースのwantの源にあるのは、大抵はそれらとは何の関係もない欠如です。

私は3年前に学びの相手と出会って、いろんな感情を味わって、たくさんクリアリングをしてきました。この数ヶ月は一つの山場でした。なんだかんだで彼をどうにかコントロールしたい自分、でもそれは明らかに感情問題で、ズレていると本来の自分はわかっている。でも貰いものが暴走して止められない・・・!(まぁ貰いものを意志の力で止めるのはまず無理です。そこで止められたら学びになりませんから。)

クリアリングで出てきたのは、「母との関係で感じた欠如を彼との関係で埋めようとしている」というもの。とはいっても、母への不満や欠如が意識上に上がってくることって殆どありませんでした。母が亡くなってから20年以上経っているし、クリアリングも重ねてきたし。生々しく溢れるような感情ってちょっと見当がつかなかったです。

あれこれ彷徨って、最終的には彼をコントロールしたい気持ち=母をコントロールしたかった気持ち、彼に求めるもの=母に求めていたものという角度でみていきました。約3ヶ月、いろんな方向に感情が飛んで、ときには浮遊して、しっかり重さを味わいました。大変でした、、、

愛の欠如を感じたシーンをみていたとき、ふと「(私もだけど) 母も貰いもののせいで変だったんだな」と腑に落ちました。そして「貰いものが原因だったなら、まぁいいかな。本来の母に嫌われてたわけじゃないから」と確信したら、急に忘れていた記憶が蘇りました。

小さな頃、母と近所の電気屋さんで金魚すくいをして、母が金魚を七匹もとったこと。なぜそのシーン?と思うような小さな出来事なのですが、そこで私が感じたのはとても大きくて深いものでした。母がとても楽しそうで、私もとても楽しくて、同じ気持ちを一緒に感じた感覚。心が通じる感覚。愛って何かをしてあげるとか、してもらうとかじゃなく、一緒に感じることなんだと思います。

その感覚は、私がこどもに感じる感覚と同じでした。自分も親にしてもらっていたから我が子に同じ感情を持てるんだなと初めて気づきました(!) すごく当たり前のことですが、貰いものに翻弄されていると気づけないものなのです。

このクリアリングが進んでから、この数ヶ月の欠如や焦燥感は一体なんだったんだろう?というくらい毎日が穏やかです。現実をコントロールしたくてジタバタしていたのに、もうそんな気も起きません。満たされています。現実をいくら変えても、エネルギーが変わらなければ何も変わりません。エネルギーが変わればすべてが変わります。


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