劣等感

クリアリングを進めていくと、最後のほうに劣等感というものがでてくる。これは、一般的によくいう「私は劣等感の塊だから」というものとは違う。根底にある劣等感は、そんなふうに言語化できるものではない。重いし、頑なだし、その人の世界の大前提でもある。大前提が崩れたら、どうなる?ちょっと予想がつかない。だから、それがどんなに苦しくても、簡単に手放すわけにはいかない。手放せるなんて思いもしない。でも、本当は手放せる。人間ってすごいものだなと思う。どんなにエネルギーが重たい人でも、必ず一筋の光を持っている。その光を多く感じられる人生は幸せだと思う。人の光を感じとる能力は、その人自身の光の強さと比例する。

先日、父と話していて、うわっ、ケチだな〜〜!と思うことがあった。ある有益な情報を、絶対に人には教えない!と言っていたので。ちなみに父は身内にはそういうことはしない。身内にはしっかり心を開き、よその人には心を開かない。というか、よその人はみんな攻撃的で嫌なやつだと思い込んでいるらしい。そういう心持ちでいると、むしろ自分のほうが「攻撃的で嫌なやつ」になってしまうのだけど。

このケチさは一体どこからくるのだろう。自分だけが得をしたい、人には損をしてほしいという、美しくない心。

エネルギーをみていくと、「損をしている」「理不尽だ」という前提を父が持っていることがわかる。端的にいうと、お金も知性もない家庭で育ったことへの劣等感。金持ちはいいよな、自分だって生まれた家が違ったら今とは違った人生になったはず…とか、そういうもの。

劣等感というものは幻だ。お金でも知性でも何でも、上を見れば上がいる、下を見れば下がいる。下を見ずに上だけを見るのが劣等感、上を見ずに下だけを見るのが優越感、どちらもエネルギーで見れば同じこと。人との比較を軸にしている。

確かに、あの家のほうがお金がある、ないという事実はある。でも、だから何なのか?持っているものが少なめでも、不満でも、自分の持っているものを駆使して生きる以外の道はない。

劣等感は、ありのままの現実を受け入れない、自分の人生を一歩踏み出さないための言いわけなのかもしれない。それは、あまりにもったいない…。


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