存在の欠如と依存

よし書こう。と、今日も思ったので書いてみよう。

存在について。エネルギーワークでいう存在とはアイデンティティであり、「感じる」ということでもある。
我感じる故に我あり。みたいな。

さて。お金のクリアリング(※)も、この数日の不調も、根底に欠如がある。存在の欠如。アイデンティティの欠如。私が私であるという確信の欠如。

私が欠如を強く感じて心乱れるときは「依存させてくれそうな人」がいるとき。そしてその相手は必ず男性。これは、実母とまったく同じパターン。

今ちょっと親しい人がいる。でも恋愛関係ではない。ただ毎日なんとなく連絡がきて、返事をしているだけ。なのに、変なところで心が揺らぐ。

例えば風邪をひいたら、お大事にと言ってくれる。そういうのにグッとくる。お互い大人だし、そんなの普通の気遣いだって頭ではわかるのに。

今まで人に優しくされたことが全然ないんだね、と昔の彼に言われたことがあるけれど確かにそうかもね。なんでも10割増くらいで受けとってしまう。

それでも私が相手に好意を感じていたり恋の予感があったりするなら、まあいいかな。でも違う。むしろ正反対。

私は彼からの愛みたいな優しさが欲しくて仕方ないけど、でも彼自身が欲しいわけではないんだ、簡単にいうと。
もっと露骨にいうと、ひとりのメスとして、彼というオスを求めてるわけじゃない。私の細胞は彼に反応しない。

ふと気づく。母が私に感じていた感情について。そして私の存在について。存在の欠如について。

私はずっと心のどこかで、自分は気持ち悪い存在だと思ってきた。

実際よく両親に言われた。気持ち悪いとか不潔とか。
具体的に何か根拠があったのかは思いだせない。もしかしたら、ちょっと脅せば親の言うことをきくと思って、そういう言い方をしたのかもしれない。

この気持ち悪さは、母が実際に私に感じていた感情だろう。私だけでなく父に対する感情でもあっただろう。そして母自身も、自分は気持ち悪い存在だと思っていただろうな。存在の否定。

母にとって父は、自分の欠落を満たしてくれそうな、依存させてくれそうな相手ではあっても、オスとして心惹かれる相手ではなかったんだろう。

そして、私は、そういう感情の果てに登場しちゃった存在なんだ。

直感で自分が求めた相手ではなく、自分の欠如を埋めてくれそうな相手と共に生きた母は、その後どうなったか。
母は何を感じて生きていたのか、または感じずに生きていたのか。

答えは今の私の中にある。

親が学びきれなかった課題は、こうやって次世代に受け継がれていく。
ある意味では家系的な進化のために私達は生きている。よし頑張ろう。

※クリアリング…ネガティブなエネルギー(感情)を一掃するワザのようなもの。経験と努力により誰でも後天的に習得できる。

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